× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 何だか日記のエディタを開くと書くことが思いつかない・・・・・・そういうことはたまにありますです。
個人的にはもやもやが残る12話。ほとんどBGMにしながら考えてたんですが、錬金術は、命そのものなんだ!っていう言葉は、東の賢者VS西の賢者的な前フリかなあって。
錬金術と錬丹術の明確な差は、まだ原作でも語られてないですけど、お父様のさじ加減で、アメストリスの錬金術は使えなくなる。この差をわかりやすくするための。 そう思うと、今度は別のいろんなことも引っかかってきて、全然まとまらないんですが。 自分の人体錬成のこと、もっと早く話しておけば、って師匠は言った。 入江版の師匠は兄弟の修行中、人体錬成はダメだって話はしなかったのかもしれない。メニィのシーンをしなかったのは、確信的かも。 命=世界=錬金術。私がひっかかってるのは、錬金術が命だなんて、そんな大それた話があるかアホ!ということかいなと思うのですが。 「全は一、一は全」を理解するにあたって、世界に大きな流れがあるということ、その流れを知るということが錬金術だ、と言っている原作に対して、錬金術は全であり、一であると言っている(気がする)アニメ。 多分この差にひっかかりがあるんですよ。 Sing2さんが言うように、大きな流れの中のひとつである自分しか理解しなかったから、兄弟が人体錬成をしてしまったのが原作だとすると、そもそも理解の仕方がおかしかったんですよ(・・・)なアニメみたいな対比があったりするのかな。 ううーん。でも私としては、原作で流れを知ったはずの兄弟が母さんの錬成に着手したのはなんでかってことも理解出来てなかったりするので、どう考えてもじゃあアレは?コレは?みたいになっちゃうんですが。 でもまあ、アメストリスの錬金術が命を使ってることに対する前フリと思うことで、個人的に納得できそうなので、とりあえずこれで(え) PR この記事にコメントする
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